傘の持ち手の透明ビニールを、いつ剥がすか問題について本気で考えてみた

春って、どうしてこんなに「新しくしたもの」と「まだ手放せないもの」が同時に増えるんだろう、と思います。
四月も後半に入って、今日みたいな時期になると、昼間の光はすっかりやわらかいのに、空気のどこかにはまだ不安定さが残っていて、油断すると急に雨が来そうな気配があります。桜の気配は少しずつ遠のいて、代わりに若い葉っぱが風に揺れている。いわゆる「穀雨」の頃が近づいてきて、春の終わりと初夏の入口が、静かに混ざり始める季節です。
そんな時期になると、私は毎年のように傘を見直します。
壊れていないか、骨は曲がっていないか、玄関に置いたままホコリをかぶっていないか。けれど、点検しながら毎回ちょっとだけ気になってしまうことがあります。
それが、傘の持ち手に巻かれている、あの透明のビニールをいつ剥がすか問題です。
たぶん、これをテーマに記事を書こうと思う人はそんなにいない。
もっと有益なことはいくらでもあるし、検索して何か人生が変わるわけでもない。なのに私は、この透明ビニールに、不思議なくらいその人の性格とか、暮らし方とか、ちょっとした心の癖みたいなものが出る気がしているんです。
新品の傘を買ったその日に、迷いなくぺりっと剥がす人。
使い始めても、なんとなくそのままにしてしまう人。
気づけば半年くらい巻かれっぱなしで、端っこだけ少し白く浮いてきている人。
いる気がするんですよね。しかも、その違いって案外、恋愛とか仕事とか、自分のごきげんの扱い方にまで、うっすら繋がっているような気がしてしまうのです。
傘の持ち手の透明ビニールが剥がせない夜は、だいたい心もまだ新品のままにしておきたい
剥がすと「自分のものになる」感じが、少しだけこわい
透明ビニールって、本来はただの保護材です。
傷がつかないように、店頭で汚れないように、きれいな状態で手に渡るように。役目としてはそれだけのはずなのに、実際にはそれ以上の意味を持ってしまうことがあります。
私は昔から、新しいものを完全に「使い始める」ときに少しだけ緊張します。
新しいノートの一ページ目とか、ちょっと良いコートの最初の日とか、買ったばかりのコスメを開封する瞬間とか。使い始めたら、そこからはもう“まっさら”ではいられない。自分の生活の手垢がついて、良くも悪くも現実の持ち物になっていく。
傘の持ち手の透明ビニールも、たぶんそれと同じです。
剥がした瞬間、その傘は「お店のきれいな商品」ではなく、「私が雨の日に持ち歩く生活道具」になる。駅の床に立てて、コンビニの傘立てに入れて、ときどき雑にドアへ立てかけてしまう、完全に現実側の存在になる。
それが、少しだけさみしい。
まだ何にも汚れていないものを、自分の生活に引きずり込む感じがしてしまうから。
たぶんこれは、物を大切にしたい気持ちでもあるし、同時に、現実に触れさせたくない気持ちでもあるんだと思います。
好きな服ほどもったいなくて着るタイミングを逃すのと似ているし、楽しみにしていたドラマの最終回をなかなか観られないのとも少し似ている。大切なものほど、ちゃんと始めるのがこわい。そんな、ちょっと面倒くさい心の癖です。
しかも透明ビニールって、絶妙に「まだ剥がさなくても困らない」んですよね。
スマホのフィルムみたいに操作の邪魔になるわけでもないし、タグみたいに目立ちすぎるわけでもない。だから言い訳が成立してしまう。
今日はまだいいか。
雨が強い日が来たら剥がそう。
本格的に使う日からにしよう。
そんなふうに先延ばしにしているうちに、気づけば季節がひとつ進んでいる。
春の終わりって、こういう「小さな先延ばし」が似合う季節な気もします。
新生活が始まって少しだけ疲れが出る頃だし、頑張る気持ちはあるのに、心の一部はまだ冬の延長にいて、全部を切り替えるにはちょっと早い。
傘の透明ビニールを剥がせないのは、怠けているからというより、まだ自分の気持ちが新しい季節に追いついていないだけなのかもしれません。
透明のまま持ち歩く人には、ちゃんと理由がある
傘の持ち手に透明ビニールを残している人を見ると、以前の私は「几帳面なのかな」とか「物持ちが良さそう」とか、かなり単純な印象を持っていました。
でも今は、そういう見方だけでは足りない気がしています。
あれを残している人って、もしかしたら**“壊れる予感”に敏感な人**なのかもしれません。
この世には、使った瞬間から劣化が始まるものが多すぎます。
お気に入りのパンプスは初日がいちばん綺麗だし、白いTシャツは洗うたびに少しずつ表情を変えるし、心地よかった関係も、言葉ひとつで空気が変わってしまうことがある。
大人になると、「永遠にきれいなまま」なんてほとんどないと知ってしまうから、せめてスタート地点だけでも長く保存しておきたくなる。
それって、ちょっと切ないけれど、すごく人間らしい気持ちです。
しかも30代って、妙にその感覚が強くなる時期がある気がします。
20代の頃みたいに、勢いだけで新しいものへ飛び込めない。
でも、年齢を重ねたぶん慎重になって、傷つかない工夫も覚えてしまった。
新しい出会いでも、新しい趣味でも、新しい仕事でも、「どうせそのうち現実的な顔を見せるんでしょう」と、まだ始まってもいないのに少し身構えてしまうことがある。
傘の透明ビニールを剥がさない心理って、その縮図みたいだと思うんです。
ちゃんと使いたい。
でも、汚れるのはいや。
生活の中で必要になるのはわかっている。
でも、あまりにも現実的な傷み方は見たくない。
この矛盾、なんだかすごくわかるんですよね。
私は一人暮らしなので、雨の日の帰宅ってわりと静かです。
濡れた靴を脱いで、鞄を置いて、傘を玄関の隅に立てかける。その瞬間、持ち手に巻かれた透明ビニールが部屋の灯りを変に反射して、「まだ新品です」と小さく主張してくることがある。
もう何度も使ったはずなのに、その一部分だけ妙に初々しい。
そのアンバランスさが、少し可笑しくて、少し愛おしい。
たぶん私たちは、完璧なままでは生きられないと知りつつ、どこか一か所だけでも新品のまま残しておきたいのかもしれません。
全部が生活に染まってしまうと、心までくたびれてしまいそうだから。
だから傘の透明ビニールは、だらしなさの証拠じゃなくて、案外、自分を守るための小さな保留なのかもしれないです。
ある雨の日、やっと剥がしたと思ったら、いちばん残したかったのは傘じゃなかった
ここまで散々、透明ビニールについて語っておいて何ですが、私はつい最近まで、一本だけどうしても剥がせない傘を持っていました。
黒でもベージュでもない、少しグレーがかった青の傘。派手ではないけれど、雨の日にだけ妙にきれいに見える色で、買ったときは「これは長く使うかも」と思った一本でした。
その傘を買ったのは、ちょうど去年の春の終わりでした。
湿気のある風が吹き始めて、街路樹の緑が濃くなってきた頃。
私はその日、仕事の帰りに少し遠回りして、駅ビルの雑貨屋でその傘を買いました。何か嫌なことがあった日、というわけではないのに、なぜかひとりで軽く落ち込んでいて、でもケーキを買うほどでもなくて、せめて雨の日が少しだけマシになる物がほしかったのを覚えています。
買ってから何度も使いました。
急な夕立の日も、風の強い日も、コンビニに寄るだけの小雨の日も。
それなのに、持ち手の透明ビニールだけはずっとそのままでした。端っこが少しめくれてきても、爪でつまめば簡単に剥がせるのに、なぜか剥がさなかった。
ある日の夜、帰宅して傘を閉じたとき、そのビニールがついに裂けて、みっともなくぶら下がりました。
さすがにもう限界だなと思って、私は玄関でそれをぺりぺりと剥がしました。思っていたよりあっけなくて、剥がした下の持ち手はつるんとしていて、拍子抜けするほど普通でした。
でも、その瞬間、なぜ自分が今まで剥がせなかったのか、急にわかってしまったんです。
その傘を買った日の帰り道、私は母から電話をもらっていました。
用件は本当に何でもないことで、「そっちは雨、大丈夫?」という、たったそれだけの電話でした。
そのとき私は駅前の屋根の下で新しい傘を持ちながら、「今ちょうど買ったところ」と笑って答えた。母も笑って、「ならよかった」と言って、すぐに電話は終わりました。
ただそれだけです。
泣ける話でもないし、人生が変わる会話でもない。
でもその数か月後、母は入院して、今までみたいに気軽な電話が減りました。もちろん元気ではあるし、大きな悲劇ではない。けれど、以前みたいな「雨、大丈夫?」の一言が、こんなにも生活の真ん中にあったんだと、そのとき初めて知ったんです。
つまり私が残したかったのは、傘の新品感なんかじゃなかった。
あの日の、何でもない娘のままで母に返事をしていた自分の時間だったんです。
透明ビニールは保護材じゃなくて、記憶のしおりみたいなものだった。
だから剥がせなかった。
汚れたくなかったのは傘じゃなくて、あの日の会話の輪郭だった。
そう気づいた瞬間、玄関でひとりなのに、少し笑ってしまいました。
あまりにも回りくどいし、自分でも面倒くさい。でも、そういう感情って案外、本音なんですよね。私たちは「これはただのビニール」と言いながら、本当はもっと別のものを貼りつけて生きている。
だからもし、あなたの家の玄関にも、なぜかずっと剥がしていない透明ビニールのついた傘があるなら、無理に今すぐ剥がさなくてもいいのかもしれません。
その保留には、きっとあなたにしかわからない理由があるから。
そして、いつか自然に剥がせる日が来たら、そのとき初めてわかるのだと思います。
自分が守っていたのが、物の表面なのか、気持ちの表面なのかを。
……ちなみに、その傘。
ビニールを剥がした次の週、私はうっかり電車に忘れました。
ここまで感傷的に語っておいて結末がそれなの、と自分でも思いました。
でも、数日へこんだあと、妙にすっきりもしたんです。
残したかった記憶は傘に貼ってあったわけじゃなくて、もうちゃんと自分の中に移っていたから。
結局、大事なものって、手元の物じゃなく、剥がしたあとに残るほうなのかもしれません。





