植物が枯れた夜に気づいた、ひとり暮らしの部屋で心が乾かない暮らし方

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    植物が健やかに育つ部屋で、私はやっと「誰かと比べない呼吸」を覚えました

    明るく緑に囲まれた朝のひととき

    枯れかけた葉を見て、なぜか自分の将来まで責めてしまった夜です

    6月25日。暦の上では夏至の頃で、七十二候では「乃東枯」、ウツボグサが静かに枯れはじめる季節です。昼は長いのに、夕方の雨雲が近づくと、部屋の中だけ少し早く夜になるような日でした。

    その日、私は帰宅してすぐ、窓辺の植物を見て固まりました。

    昨日まで元気そうに見えていた小さな葉が、端っこから茶色くなっていたんです。たった一枚の葉です。なのに、胸の奥が変にざわざわしました。

    「あ、また私、ちゃんと見ていなかったんだ」

    植物の葉が一枚枯れただけで、そこまで落ち込む必要なんて本当はありません。でも、30代の独身女の心というのは、たまに意味のわからない場所から急に崩れます。

    仕事では普通に笑えます。美容業界と飲食業界で長く働いてきたから、人前で感じよくいることは、わりと得意です。お客様に「ありがとう」と言われると嬉しいし、誰かの表情が少し明るくなる瞬間を見るのも好きです。

    でも家に帰って、メイクを落として、ブラのホックを外して、スマホを充電器につないだ瞬間、昼間の私はすっと消えます。

    残るのは、年収300万円でやりくりしながら、婚活アプリを開いては閉じて、友達の結婚報告にちゃんと「おめでとう」と言いながら、ひとりの部屋で洗濯物を畳んでいる私です。

    誰かに大きな不幸を訴えたいわけではありません。むしろ、生活はそれなりに回っています。ごはんも食べられるし、働けるし、たまにはカフェでケーキも食べます。だけど、ときどき思うんです。

    「私、このままどこに向かって育っているんだろう」って。

    植物を育てることが流行っているとか、グリーンのある暮らしがおしゃれとか、そういう話ではありません。私がその夜、枯れかけた葉っぱの前で立ち止まったのは、たぶんその植物の姿が、自分に似ていたからです。

    水をあげているつもりでした。日当たりも気にしているつもりでした。毎日見ているつもりでした。

    でも、ちゃんとは見ていなかった。

    これ、私自身にも同じことをしているなと思いました。

    スキンケアはします。化粧水も美容液も塗ります。婚活のために服も選びます。プロフィール写真の写りも気にします。体重も、肌荒れも、髪のツヤも、年齢の見え方も、そこそこ気にして生きています。

    でも、自分の心が今どれくらい乾いているのかは、見ないふりをしていました。

    「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫です」と答えるための顔ばかり育てて、本当の私は、鉢の中で根っこをぎゅうぎゅうに詰まらせていたのかもしれません。

    婚活も、仕事も、美容も、全部ちゃんとやろうとすると、自分が植物ではなく、商品棚に並んだ何かになっていく感じがあります。見栄えがいいか。選ばれるか。傷んでいないか。まだ価値があるか。

    そんなふうに自分を眺める夜は、心がぜんぜん休まりません。

    枯れた葉をつまもうとして、私は手を止めました。

    かわいそう、と思ったんです。植物に対してではなく、たぶん自分に対して。


    共生って、誰かに合わせ続けることではありませんでした

    「共生」という言葉を聞くと、やさしくて美しい関係を想像します。植物が健やかに育ち、隣の植物も邪魔せず、互いにのびやかに枝葉を広げるような世界です。

    でも、正直に言うと、私は共生が少し苦手です。

    人に合わせることならできます。空気を読むこともできます。相手が何を求めているかを考えて動くことも、たぶん人より慣れています。接客の仕事をしてきたから、相手の一瞬の表情を拾う癖が体に染みついています。

    けれど、それは本当に共生だったのでしょうか。

    ただ自分の根っこを小さく丸めて、相手の鉢の中に無理やり入ろうとしていただけではないでしょうか。

    婚活をしていると、これが本当によく起こります。

    「休日は何してるんですか?」
    「料理はしますか?」
    「結婚後も働きたいですか?」
    「子どもはほしいですか?」

    ひとつひとつは普通の質問です。悪気なんてないのもわかっています。でも、何度も聞かれているうちに、自分が面接されている観葉植物みたいな気分になることがあります。

    日当たり良好ですか。手間はかかりませんか。部屋になじみますか。長く楽しめますか。

    そんなラベルを貼られたら、私は笑顔で「育てやすいです」と答えてしまいそうになります。ほんとうは、けっこう水切れします。急に落ち込みます。湿度に弱い日もあります。ひとりの時間が必要です。かと思えば、誰かにぎゅっと抱きしめてほしい夜もあります。

    めんどくさいです。わがままです。矛盾しています。

    でも、生きているものって、だいたいそうじゃないですか。

    植物だって、全部同じ育て方では元気になりません。直射日光が好きな子もいれば、柔らかい光がいい子もいます。水をたっぷり欲しがる子もいれば、少し乾かしたほうが強くなる子もいます。風通しが悪いと弱る子もいます。

    人間も同じなのに、なぜか私たちは「扱いやすい女」になろうとしてしまいます。

    返信が早すぎると重いかな。遅すぎると冷たいかな。仕事の話をしすぎると可愛げがないかな。将来の話をしたら焦っていると思われるかな。年収の話は生々しいかな。肌の調子が悪い日は会わないほうがいいかな。

    そうやって自分の葉っぱを一枚ずつ折りたたんでいくと、たしかに誰かの邪魔にはならないかもしれません。

    でも、のびやかではありません。

    私が本当にほしかったのは、誰かの部屋に置いてもらうことではなく、自分の根を張れる場所でした。

    そして、誰かと一緒にいるなら、お互いの根を切らずにいられる関係がよかったんです。

    これは恋愛だけの話ではありません。友人関係も、仕事も、家族もそうです。大人になるほど、関係を壊さないために言葉を飲み込む場面が増えます。波風を立てないことが成熟だと思い込んで、心の中に小さな湿気をためていきます。

    でも、湿気は放っておくとカビになります。

    やさしさの顔をした我慢は、いつか静かな怒りになります。

    だから最近の私は、共生という言葉を少しだけ疑うようにしています。美しい言葉ほど、無理を隠す布になりやすいからです。

    本当の共生は、合わせ続けることではなく、違うまま隣にいることなのだと思います。

    相手の成長を奪わない。自分の成長も諦めない。近すぎて根腐れしない。遠すぎて乾ききらない。

    そんな距離感を、私はまだ練習している途中です。


    植物に水をあげるふりをして、私は自分の心に水をあげていました

    次の日の朝、私はいつもより少しだけ早く起きました。

    雨上がりの空気がまだ湿っていて、カーテンを開けると、部屋の中に薄い光が入りました。夏至の頃の光は、朝から少し強いのに、どこか透明です。洗い立ての白いシャツみたいで、眠たい心にも遠慮なく触れてきます。

    私は植物の鉢をひとつずつ見ました。

    土の表面を指で触って、乾いているものだけに水をあげました。前までは「全員に同じだけ」が安心でした。でも、それは公平ではあっても、やさしさではなかったのかもしれません。

    必要な分は、それぞれ違う。

    この当たり前のことが、なぜ人間関係になると急にわからなくなるのでしょう。

    私は、婚活で出会った人に合わせすぎて疲れた夜のことを思い出しました。相手の趣味に興味があるふりをして、聞き役に徹して、帰り道でどっと疲れて、コンビニの明るさに吸い寄せられるように入って、買う予定のなかったアイスを買った夜です。

    あのとき私は、相手に嫌われなかったかどうかばかり気にしていました。

    でも本当は、「私は私を嫌っていなかったか」を気にするべきでした。

    恋愛がうまくいかないと、自分の魅力が足りないように感じます。肌がきれいなら、もっと痩せていたら、もっと明るく話せたら、もっと余裕がある女だったら。そんなふうに原因を自分の中から掘り出そうとして、心の土を何度も何度も掘り返してしまいます。

    でも、植物は掘り返しすぎると弱ります。

    根っこが落ち着く時間が必要です。

    人間もきっと同じです。反省ばかりしていると、成長しているつもりで、実は根を傷つけていることがあります。

    スキンケアも似ています。肌が荒れたとき、焦っていろいろ塗りたくなる日があります。けれど、本当に必要なのは、足すことではなく、刺激を減らすことだったりします。心もそうです。もっと頑張る、もっと変わる、もっと選ばれる女になる。そうやって足し算ばかりしていると、どこかで自分の輪郭がぼやけていきます。

    私はその朝、枯れた葉を一枚だけ切りました。

    全部を整えようとはしませんでした。見た目を完璧にしようとも思いませんでした。ただ、もう役目を終えた葉を、ありがとうと思いながら外しました。

    その瞬間、少しだけ泣きそうになりました。

    たぶん私は、自分の過去にもそう言いたかったんです。

    うまくいかなかった恋にも、無理して笑った職場の帰り道にも、何者にもなれない気がして眠れなかった夜にも、「もういいよ、ありがとう」と言いたかったんです。

    枯れたものは、失敗ではありません。

    次の葉に場所を譲っただけです。

    そう思えたら、胸の中の固いものが少しだけほどけました。


    びっくりするくらい静かな結末ですが、私は植物を増やすのをやめました

    ここまで読んでくださった方は、きっとこう思うかもしれません。

    サクラック、植物に癒やされたんだね。これからもっとグリーンを増やして、部屋を森みたいにして、心も整えていくんだね、と。

    私も最初はそう思っていました。

    観葉植物を増やせば、部屋がもっとやさしくなる気がしました。寂しい夜も、植物に囲まれていれば大丈夫な気がしました。誰かに選ばれなくても、緑がそばにあれば、自分の暮らしを好きになれる気がしました。

    でも、私は植物を増やすのをやめました。

    これが、今日いちばん書きたかったことです。

    植物が悪いわけではありません。むしろ、植物は何も悪くありません。私を責めないし、急かさないし、比較もしません。ただそこにいて、光のほうへ伸びるだけです。

    だからこそ気づいてしまったんです。

    私は植物を育てたいのではなく、「何かをちゃんと育てている私」になりたかったのかもしれない、と。

    結婚していない私。子どもがいない私。仕事で大成功しているわけでもない私。年収300万円で、将来に少し不安があって、婚活では空振りも多くて、SNSを見れば誰かの人生がまぶしすぎる私。

    そのぽっかりした場所を、植物で埋めようとしていたのかもしれません。

    「私は何も持っていないわけじゃない」
    「私はちゃんと暮らしを整えている」
    「私は愛情を注げる人間だ」

    そう証明したくて、緑を買おうとしていたのかもしれません。

    でも、証明のために育てられる植物は、少し苦しいです。

    人間関係も同じです。寂しさの穴を埋めるために恋人を探すと、相手のことを見ているようで、本当は自分の不安しか見ていないことがあります。結婚したい気持ちは本物です。誰かと一緒に生きたい気持ちも本物です。けれど、その前に私は、私の部屋で私自身と共生できているのかを見なければいけませんでした。

    だから私は、新しい鉢を買う代わりに、今ある植物の場所を少し変えました。

    窓際に詰め込みすぎていた鉢を、ひとつは棚へ、ひとつはキッチンの小さな明かりが届く場所へ移しました。見た目の統一感は少し崩れました。でも、不思議と部屋の空気は軽くなりました。

    植物同士にも距離が必要でした。

    私にも、距離が必要でした。

    人に優しくするための距離。恋を焦らないための距離。仕事に飲み込まれないための距離。SNSの誰かの幸せを、自分の不幸の証拠にしないための距離。

    のびやかに共生するって、たぶん「増やすこと」ではありません。

    ちゃんと余白を残すことです。

    誰かを愛する場所を作る前に、自分が呼吸できる場所を残すことです。

    私はまだ、完璧に自分を好きになれたわけではありません。婚活で落ち込む日もあります。肌の調子が悪いだけで、誰にも会いたくなくなる日もあります。仕事で何気なく言われた一言を、深夜まで引きずる日もあります。

    でも、窓辺の植物を見るたびに思います。

    この子たちは、誰かに褒められるために伸びているわけではない。

    ただ、生きるために伸びている。

    だったら私も、誰かの正解になるためではなく、私のままで生きるために、少しずつ伸びていけばいいのだと思います。

    枯れた葉がある日も、根詰まりする日も、水を忘れる日も、光の向きがわからない日もあります。

    それでも、今日ここにいる。

    それだけで、もう十分に健やかな始まりなのかもしれません。

    6月25日の湿った夜、私は植物に水をあげながら、ようやく自分に言いました。

    「無理に咲かなくていいよ。まずは、枯れない場所を選ぼうね」

    それは誰にも見せていなかった思考でした。

    でも、今夜だけはそっと言葉にしておきます。

    私たちは、誰かの部屋を飾るために生きているんじゃありません。

    自分の根を、ちゃんと自分の土に下ろすために生きているんです。

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