30代に入って思った。老ける原因って「シワ」より「雑さ」。

外がまだ完全に明るくなる前の時間、部屋の窓ガラスにうっすら映った自分の影が、なんだか他人みたいに見える朝がある。
カーテンの隙間から入ってくる光が、昨日の夜に片づけきれなかった洗い物の輪郭をくっきりさせて、シンクの中のコップが「ここにいるよ」って小さな声で主張してくる。年末の空気は乾いていて、暖房の風が当たる場所だけがやけにあたたかい。だけど、そのあたたかさは、心まで温める種類のものじゃなくて、ただ乾燥を進めるだけの、ちょっと意地悪なあたたかさだったりする。
私は、コーヒーを淹れる前に、まずスマホを手に取ってしまった。
起き抜けの指先で、通知を上から下へ、下から上へ、意味もなくなぞって、画面の中の誰かの「ちゃんとしてる生活」に目だけを先に連れていかれる。誰が悪いわけでもないのに、見れば見るほど、自分の部屋の静けさが、手入れされていない庭みたいに感じてくるのが不思議だ。
それでも、時間はいつも通りに進むから、私は「よし」と小さく声を出して、キッチンへ向かう。声に出したのは気合いのためというより、たぶん、ここから自分の生活を立て直す合図が欲しかっただけだと思う。
その日の小さな出来事は、すごく地味で、誰に話すほどでもない。
コーヒーを淹れようとして、いつものマグカップを手に取った瞬間、底にほんの少しだけ水が残っていた。昨日の夜、洗ったつもりで、すすぎが甘かったのかもしれないし、拭いたつもりで拭けてなかったのかもしれない。
たったそれだけのことなのに、私の中で何かが「カチッ」と鳴った。
なんだろう、この感じ。
怒りでもないし、悲しみでもない。
でも、確かに、がっかりに近いものがあった。しかも、誰かに対してじゃなくて、自分に対して。
“またか”って、心の中で言っていた。声に出したら多分、もっと嫌いになりそうだから、飲み込んだまま。
この手の小さなミスって、誰にも見られない。
一人暮らしだから、なおさらだ。
誰かが「ここ、ちゃんと洗えてないよ」って指摘してくることもない。
だから、私はこのマグの底の水を見て、急に、自分の生活の“雑さ”が、ひとつの形になって現れたみたいに感じた。雑さって、散らかった部屋とか、洗濯物の山とか、そういう目立つものだけじゃない。
こういう、ほんの少しの“抜け”みたいなところに、いちばん住みつくらしい。
そこで、私の中に、誰にも言わなかった本音が浮かんだ。
「私って、こんなに丁寧に生きられない人だったっけ」
…たぶん、こういうのって、自分を責めたいわけじゃないのに、勝手に責める方向へ舵が切られてしまう。
丁寧に生きるって、なんか、ちゃんとした人だけが持てる資格みたいに思えてしまって、私はその資格を更新し忘れたみたいな気分になる。
しかも、やっかいなのは、忙しいわけじゃない日でも、雑になることがあるってことだ。
仕事が立て込んでいたわけでも、夜更かししたわけでもない。
ただ、昨日の夜に「早く終わらせたい」って思った。それだけ。
早く洗って、早く片づけて、早くベッドに入って、早く明日に行きたかった。
たぶん私は、今日という一日を終わらせることに、少しだけ焦っていた。理由ははっきりしないけれど、年末ってそういう焦りが紛れ込みやすい。
何もしていないのに、何かに追われている感じ。
わかる人、きっといる。
そして、その焦りの矛先って、だいたい自分の生活の“端っこ”にいく。
丁寧にやらなくてもバレないところ。
ほんの少し手を抜いても、誰にも迷惑をかけないところ。
だから、雑さは一人暮らしの部屋で育つ。静かに、こっそり、大きくなる。
私は、底が濡れたマグカップを持ったまま、しばらく動けなかった。
「雑さ」って、実は“疲れて見える”とか“老けて見える”みたいな話よりも、もっと前にあるものだと思う。
それは、見た目の問題というより、生活の呼吸が浅くなる感じ。
やることが雑になると、自分の扱いも雑になる。
自分の扱いが雑になると、心が雑になる。
心が雑になると、周りの人への言葉も、たぶん、少しだけ雑になる。
そういう連鎖って、一回はじまると早い。
私はその朝、マグカップを洗い直しながら、ふと、ここ数日の自分の動きを思い返していた。
郵便物を開けるのを後回しにして、結局テーブルの端に積んだまま。
洗濯物を畳まずに、椅子の背にかけたまま。
帰宅したときのコートを、ハンガーにかけずにベッドの端に置いたまま。
どれも、致命的じゃない。
でも、こういう“小さな未完了”が積み重なると、部屋の空気が重くなる。自分の呼吸も重くなる。
そして、鏡を見たときに「あれ?」って思う顔になる。
それはシワのせいというより、生活の手触りがそのまま顔に出る感じ。
…って、ここまで書いておいて、気づく。
今日のテーマは「老ける原因ってシワより雑さ」だったのに、美容の話をしない縛りがある。
だから、私はこの話を、見た目のことじゃなくて、“生活の扱い方”の話として書きたい。
見た目の変化って、最後に出てくる結果であって、たぶん私たちが本当に困っているのは、その手前の「雑さに気づけない日」が増えることなんじゃないかと思う。
30代に入って、私がいちばん怖いのは、派手な失敗じゃない。
むしろ、毎日がなんとなく流れて、なんとなく終わって、なんとなく自分の輪郭が薄くなること。
「まあいいや」が増えていくこと。
その“まあいいや”が、いつの間にか、人生のデフォルト設定みたいになること。
だから、私はその朝、すごく小さなことをひとつだけやった。
大掃除みたいなことでもない。
スケジュール帳を整えるとか、自己投資をするとか、そういう立派なことでもない。
ただ、キッチンのスポンジを新しいものに替えた。
それだけ。
なんでスポンジ?って思うかもしれないけど、スポンジって生活の“雑さ”がいちばん出る場所だと思う。
汚れてても、「まだ使える」って言い訳ができる。
端がへたってても、「買いに行くの面倒」って先延ばしできる。
しかも、誰にも見られないから、ずっと放置できる。
でも、スポンジがへたっていると、洗い物の時間が微妙にストレスになる。
ストレスになると、洗い物を急ぐ。
急ぐと、すすぎが甘くなる。
すすぎが甘いと、今朝みたいにマグの底が濡れる。
…ね、雑さって、こうやって循環する。
スポンジを替えた瞬間、世界が変わるわけじゃない。
相変わらず洗い物は面倒だし、仕事のことも、人間関係のことも、将来のことも、全部まとまっては解決しない。
でも、洗うときの手の動きが少しだけ軽くなって、「私、今日の生活をちゃんと扱ってる」っていう気持ちが、ほんの少し戻ってきた。
それは大げさな達成感じゃなくて、夜に毛布を整えるときみたいな、静かな安心感。
この“静かな安心感”って、意外と大事だ。
派手に自分を上げるより、生活の中で自分を落とさないことのほうが、私には難しい。
テンションを上げる方法は知ってる。カフェに行くとか、好きな服を買うとか、SNSで気分転換するとか。
でも、テンションを落とさない方法って、こういう地味なところにある気がする。
スポンジを替えるとか、郵便物を一通だけ開けるとか、床に落ちた髪の毛を拾うとか。
そういう、ほんの小さな行動が、自分の生活を“雑にしない”ための支柱になる。
私はたぶん、ここが今まであまりブログで触れてこなかった視点だと思う。
私たちって、「頑張る」話とか「変わる」話は書きやすい。
でも、「雑にならない」話は地味すぎて、ネタにしづらい。
それに、雑になっている自分を認めるのって、ちょっと恥ずかしい。
だって、雑って、怠けているみたいに聞こえるから。
でも実際は、怠けているというより、心の余裕がすり減っているだけだったりする。
丁寧にできない日の私は、悪い私じゃなくて、ただ疲れている私なのかもしれない。
そしてもうひとつ、今日感じた違和感がある。
それは、「丁寧さって、特別な人のものだと思っていた」ってこと。
丁寧な暮らしって、センスのいい人、余裕のある人、暮らし上手な人がやるもので、私はそこからずっと遠い場所にいると思っていた。
でも、スポンジを替えただけで、少しだけ自分の生活が“私のもの”に戻ってきた気がした。
丁寧さって、才能じゃなくて、選択なのかもしれない。
そしてその選択は、毎日一個でいいのかもしれない。
読者のあなたも、たぶんあると思う。
「今日はもう何もしたくない」って日。
部屋は散らかって、LINEの返信は溜まって、仕事のメールを開くのが怖くて、なのに自分の機嫌を取る方法だけは見つからない日。
そういう日って、鏡を見る余裕すらなくて、でも、ふとした瞬間に「私、なんか疲れて見えるな」って思う。
そしてその原因を、睡眠とか、年齢とか、外側の要因にしたくなる。
でも、本当は、もっと小さな“雑さ”が静かに積もっていただけだったりする。
わかる…って、言いたくなる瞬間がある。
今日は、スポンジを替えた。
ただそれだけ。
でも私は、その小さな行動で「自分の生活を雑に扱わない」という感覚を、ほんの少し取り戻した。
大げさに言えば、“未来の自分に雑にしない”って、こういうことなのかもしれない。
足すより、整える。
増やすより、扱う。
派手な改善より、生活の端っこを丁寧にする。
それは、頑張るための方法じゃなくて、落ちないための方法。
今日の締めに、問いかけをひとつだけ残したい。
もし、あなたが今「最近なんとなく雑になってるかも」と思ったとしたら、明日、たったひとつだけ、生活の端っこを整えるとしたら、何を選びますか。
スポンジでも、郵便物でも、ベッドのシーツでも、玄関の靴でもいい。
その一個を選ぶとき、私たちはきっと、自分のことを少しだけ大事にしている。





