無添加という言葉に安心してしまった夜、敏感肌の私が化粧水を選ぶまでの話

今朝は、駅までの道がいつもより乾いていて、風がやけに軽くて、マフラーの内側に入り込んだ空気がチクチクして、あ、今日は肌が機嫌悪い日だなって、顔じゃなくて気分のほうが先に反応した。
仕事は仕事で、月末に向けて微妙にピリついていて、同僚の「それ、今じゃないとダメ?」みたいな一言が胸に小さく刺さって、私は笑いながら受け流したふりをして、でも帰り道にだけ、その刺さり方を思い出してしまうタイプ。たぶんそういう日って、家に帰ってからも「ちゃんとしたい」「失敗したくない」って気持ちが残り続けて、結局、生活のどこかで“安全そうなもの”を探し始める。
今日の私が寄りかかったのは、ドラッグストアの棚に並んだ「無添加」の文字だった。
ドラッグストアの棚の前で固まった
帰宅前に、家の近所のドラッグストアに寄った。目的は、化粧水。敏感肌ってほどじゃないと思ってたのに、最近はマスクの摩擦とか、暖房の乾燥とか、睡眠不足とか、理由がいくらでも思いつくくらい、肌が些細なことで揺れる。
棚の前で、同じようなボトルがずらっと並んでいるのを見た瞬間、ちょっと笑ってしまった。私は今、化粧水を買いに来ただけなのに、選択肢が多すぎて、人生の分岐点に立たされているような顔をしている。自分で自分にツッコミたくなる。
しかも今日に限って、店内BGMが妙に元気で、私のテンションと一ミリも合っていなくて、焦って選んだら負けみたいな気持ちになる。
「無添加」「低刺激」「敏感肌用」「フリー処方」――優しい言葉が並んでいるのに、手に取るほど不安が増えるのはなんでだろう。
そのとき、店員さんが近くを通って、私の手元を見て、さらっと言った。
「乾燥してる時期ですもんね、無添加だと安心って言う方多いですよ」
私は反射で「ですよね〜」って頷いて、あぁまた、ちゃんと考える前に“それっぽい正解”に飛びついた、って心の中で小さくため息をついた。
レジに向かう途中、私は「安いほうでいいや」って思いかけたのに、結局、ちょっとだけ高いほうを手に取っていた。値段差は数百円。缶コーヒーを二回我慢したら取り返せる程度。
でも、その数百円で買っていたのは成分というより、「今日の私はちゃんと選んだ」という気持ちだった気がする。財布から小銭を出す手が、いつもより慎重だったのも、そのせい。
帰り道、信号待ちの間にスマホを見たら、グループチャットがわちゃわちゃしていた。
「飲み会、金曜でいい?」「資料、誰か持ってない?」みたいな、軽くて忙しい会話。私は既読をつけたまま、返事ができなかった。別に嫌いじゃないのに、すぐに返す元気がなくて、でも放置すると“感じ悪い人”になりそうで、結局、画面を閉じた。
こういう「返事できない自分」に対して、私はなぜか過剰に厳しい。返せないなら返せないでいいのに、返せない自分を責めたくて仕方ない。そういう“自分に対するケチなジャッジ”が、肌にも滲むのかな、なんて、よく分からないことを思った。
家に着いて、部屋の明かりをつけたとき、ふわっとした暖かさと一緒に、乾いた空気がまとわりついた。
エアコンの風って、便利だけど、時々、生活の雑さを増幅させる。私はコートを脱いで、床に置いて、すぐ拾って、また置いて、結局ハンガーにかけるまでに三回くらい迷って、そういう小さな迷いが積み重なると、なぜか「私の人生、散らかってるな」って気分になる。
それで、散らかった気分のまま、棚の前で立ち尽くして、分かりやすい言葉にすがった。
無添加、という文字に。
誰にも言わなかった本音は、これ。
「安心って言葉がほしいだけで、化粧水がほしいわけじゃないのかも」
……そんなの、ちょっと情けない。
「無添加」って、どこまでの話なんだろう

家に帰って、袋から出したボトルをテーブルに置いた瞬間、ふと冷静になった。
無添加って、何が無いんだろう。香料?着色料?アルコール?防腐剤?それとも、ただの雰囲気?
こういうときの私は、急に真面目になる。買った直後に成分表を凝視して、勝手に「これ入ってたらアウト」「これは大丈夫そう」と脳内審査を始める。
でも実際は、無添加って言葉だけでは判断しづらいらしい。化粧品の表示ルールでは、「無添加」「不使用」みたいな言い方をするなら、“何を配合していないのか”を明示するのが基本で、たとえば「パラベン無添加」「ノンエタノール」みたいに、対象を併記することになっている。
つまり、「無添加」って大きく書いてあっても、その横に小さく何が無いのかが書いてなかったら、私は“自分に都合よく”安心してしまう可能性がある。
あと、私がちょっと苦手なのは、「無添加」って言葉が、いつの間にか“善”みたいな顔をし始めるところ。
食品でも「無添加」ってよく見るけど、消費者庁のガイドラインでは、対象を明示せずにただ「無添加」とだけ書くのは、何が入っていないのか分かりにくくて、受け取る側が勝手に推測することになる、という話が出てくる。
私はその文章を読んだとき、ちょっとドキッとした。推測って、ほぼ願望だから。自分に都合よく解釈して、安心して、でも裏切られた気になって、また疑う、の無限ループ。
お風呂上がり、洗面台の前でボトルを握った。
肌って、ほんの数分で状態が変わる。湯気の中では柔らかいのに、タオルで押さえた瞬間に突っ張って、急いで何かを塗らないといけない気がしてくる。焦って塗ると、今度は手の摩擦が気になって、私の手って、こんなに雑だったっけ?ってなる。
だから今日は、ちょっとだけ“丁寧なフリ”をしてみた。コットンは使わずに手のひらで、顔じゃなくて腕の内側にまず少しだけ。パッチテストってほど立派じゃないけど、いきなり全顔にいく勇気がなかった。
塗ったところが乾くまでの数分、私は鏡の前でぼーっとして、なぜか今日の失敗(というほどでもない失敗)を反芻して、また心の中で勝手に謝っていた。
こういうときに、「大丈夫だよ」って言ってくれる人がいたら救われるのに、私は自分にだけ、いつも「ちゃんとしなよ」って言ってしまう。
数分後、腕は何も起こらなかった。赤くもならない。かゆくもない。
その“何も起こらない”が、こんなに嬉しいことだって、私は今日初めて気づいた。大きな成功じゃなくていい、ただ悪化しない、という静かな安堵。
もしかしたら私は、人生でも同じものを求めているのかもしれない。劇的に良くならなくても、今日より悪くならないなら、それで十分な日って、ある。
わかる…こういうの、ある。
ラベルの優しさに甘えて、説明の細かいところを見落として、あとで不安になるやつ。
それに、敏感肌に向けた一般的な話だと、アルコール(エタノール)や香料、着色料みたいな刺激になりやすい要素は避けるのが無難、とよく言われる。
ただ、避けるべき成分が“全員に共通”ってわけでもないし、同じ成分でも体調や季節で反応が変わることもある。だからこそ、「フリー」と書いてあるだけで、全自動で安全判定してしまうのは、ちょっと危険なラクさだなって思った。
成分表を読む手が、化粧水じゃないところで止まった

成分表を追いながら、私の手が止まったのは、肌に関する知識が足りないからでも、理科が苦手だからでもなくて、たぶん別の理由だった。
“これを選んだ自分は間違ってない”って、証明したかったんだと思う。
今日の昼、上司に言われた「まあ、次から気をつければいいよ」が、優しいのに怖かった。
責められてないのに、見放されてないのに、なぜか自分だけが「次」を失敗できない気がして、帰りの電車でずっと肩が上がっていた。
そういう日って、家に帰ってからも、何か一つでも“正しい選択”をして、帳尻を合わせたくなる。たとえば、夕飯をちゃんと作るとか、洗濯を回すとか、化粧水を「無添加」にするとか。
……ねえ、冷静に考えると、化粧水が人生のリカバリー担当って、荷が重すぎない?
私は自分で思いながら笑ったけど、笑うしかなかった。
もちろん、肌が荒れたら困るし、刺激が少ないものを選ぶのは現実的な工夫だと思う。
でも今日の私は、肌のためというより、“自分の不安を落ち着かせるため”に無添加を買った気がして、そこにちょっとした違和感が残った。
そういえば、化粧品で刺激やかぶれが心配なときは、パッチテストをしたほうがいい、という話もある。実際、化粧品の刺激・アレルギーなどが疑われる場面でパッチテストを考える、という解説もあって、何となく「肌が弱い=気合いで我慢」じゃないんだな、と思えた。
ただ、私は今日、パッチテストの前に、先に“安心の言葉”を買ってしまった。
後半になってやっと、今日の小さな気づきが降りてきた。
私は「肌に合うかどうか」を確かめたいと言いながら、本当は「先が読めない不安」を減らしたくて、分かりやすいラベルに寄りかかっていたんだと思う。
無添加って言葉が悪いんじゃなくて、私がその言葉に“丸投げ”したかっただけ。成分表を読むのも、試すのも、ちゃんと時間を取って、少しずつ、違和感が出たらやめる――そういう地味な手間が、本当の安心につながるのに、今日はそれをサボりたかった。
たぶん、生活ってそういうものだ。
将来のことも、人間関係も、仕事も、白黒つけられないグレーの中で、私たちは「無添加」みたいな分かりやすい言葉を拾って、いったん心を落ち着かせながら、また明日を回していく。
今日の締めに、答えのない問いを置いておく。
あなたは最近、何に「安心」というラベルを貼って、自分を守ってる?




