一人暮らしを始めて気づいた“生活の先回り思考”という習慣|帰宅後の買い物と小さな判断が増える理由

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    目次

    大人になると気づくけど、「先回りして暮らすこと」って、たぶん思っていたよりずっと生活そのものだった

    元気な女性

    ・帰る前に、冷蔵庫の中身で夜ごはんを逆算する
    ・洗濯物の乾き方まで考えて、明日の服を決める
    ・使ったお金を頭の中で何度もなぞって少しだけ不安になる
    ・体調も機嫌も崩しきる前に、静かに予定を引き算する

    これ全部「普通の生活」らしい。学生の頃の自分に教えてあげたい。

    朝から少し空気が重たくて、晴れているのに春っぽい軽さはなくて、むしろ冬の名残が部屋の隅にまだ残っているみたいな日だった。

    出勤前、ベランダに干したタオルが昨日よりはちゃんと乾きそうだなと思いながら、同時に、帰ったら先にお米を炊くか、それとも冷蔵庫の半端な野菜から片づけるかを考えていた。

    こういうの、学生の頃の私は「生活感がある」と雑に呼んでいた気がする。でも今は、それが生活感なんてふわっとした言葉では片づかない、もっと細くて地味で、しかも一日をちゃんと回すのに必要な判断の連続なんだとわかる。

    今日、実際にあった小さな出来事は本当に小さい。仕事帰り、スーパーに寄るつもりでいたのに、駅を出たところでふとスマホのメモを見返したら、家に卵があると思っていたのは勘違いで、なかった。

    ついでに牛乳も切れそうで、でも洗剤は今月ちょっと我慢したいし、週末の予定を考えると無駄な買い物はしたくない。たったそれだけのことなのに、私は店の入口の前で少し立ち止まって、買うものを頭の中で並べ替えた。

    卵、牛乳、豆腐、納豆。いや、豆腐は明日でもいいか。納豆は安いけど、今週まだ一回も食べてないからあった方がいい。洗剤は来週まで持つかな。

    あ、でもティッシュも残り少なかった気がする。そんなことを考えながらカゴを持つ自分を見て、急に妙な気持ちになった。

    昔の私は、大人になったらもっと華やかなことを考えていると思っていた。

    仕事で成果を出すとか、恋愛をちゃんと進めるとか、将来の選択肢をかっこよく選び取るとか、そういう「人生っぽいこと」を毎日考えているのが大人だと思っていた。でも現実は案外違っていて、人生はもっと細かいところで消耗する。

    何を食べるか、いつ洗うか、どこで節約するか、疲れをどの段階で認めるか。しかも、それを全部、自分で決めなきゃいけない。誰かが時間割みたいに組んでくれるわけでもないし、親が「ごはんあるよ」と言ってくれるわけでもないし、明日の持ち物を忘れても誰も気づいてくれない。

    それで思った。大人になるって、自由が増えることでもあるけれど、同じくらい「先回りして暮らす力」が必要になることなのかもしれない、と。

    厚生労働省の白書でも、大きな出来事だけでなく、些細な日常の出来事でも、それが重なったり続いたりすることで心の不調の要因になりうるとされている。

    さらに、若い成人期は住まい、仕事、人間関係などの移行が重なりやすく、それ自体がストレスを生みやすい時期だとする研究もある。孤独感についても、単に人がいないからではなく、生活の変化が速く、 routine や関係の持続感を持ちにくいことと結びつくという報告がある。

    つまり、私たちが日々くたびれてしまうのは、気合いが足りないからでも、要領が悪いからでもなく、暮らしを維持するための小さな判断が思った以上に多いからなのだと思う。

    「ちゃんとしてる人」に見せるためじゃなく、崩れないためにやっていることが増えた

    スーパーでカゴを持ちながら、誰にも言わなかった本音がひとつある。

    正直、もう今日は何も考えたくない、だった。

    献立も、予算も、栄養バランスも、明日の朝の自分が少し楽になる選択も、何も考えずに、好きなものだけ買って帰れたらどれだけ楽だろうと思った。

    お菓子と冷凍パスタとアイスだけ買って、今日はこれで終わりです、と生活に言えたらいいのに、と少し本気で思った。でも結局、私は卵と牛乳をカゴに入れて、見切り品の小松菜まで拾ってしまった。

    別にえらいわけじゃない。ただ、明日の自分が困る顔が、もう簡単に想像できてしまう年齢になっただけだ。

    この感覚、昔はもっと「しっかりした大人のもの」だと思っていた。生活を回せる人は、きっと生まれつきちゃんとしていて、段取りが上手で、節約もうまくて、部屋もそこそこ整っていて、体調管理も自然にできる人なんだろうな、と。でも実際に自分がその年齢になってみると、そんな優雅な話ではなかった。

    ちゃんとしているというより、崩れないために必死で小さな調整をしているだけの日の方が圧倒的に多い。

    帰宅して玄関に買い物袋を置いたとき、ふっと肩が重くて、その瞬間、ああ今日は思ったより疲れていたんだなとやっと気づいた。家に着いてから疲れを知ることってある。

    外では平気な顔をしていたのに、ドアを閉めた途端に、無言で座り込みたくなるやつ。わかる…と思った人、きっと少なくないと思う。あの感じは、何か大事件があったわけじゃないのに、地味な判断を何個もくぐって帰ってきた人にだけわかる疲れ方だ。

    しかも厄介なのは、この疲れが説明しづらいことだ。残業したわけでも、誰かと大喧嘩したわけでも、失恋したわけでもない。なのに妙にすり減る。たぶんそれは、一日を無事に終えるための微調整が多すぎるからだと思う。

    天気を見て服を選んで、時間を逆算して家を出て、仕事で空気を読み、帰りに必要なものを思い出し、冷蔵庫の中身と財布の中身を照らし合わせ、明日の自分のコンディションまで考える。

    こうやって書くと細かすぎて笑ってしまうけれど、この細かさこそが生活なんだろう。

    生活って、キラキラした自立じゃなくて「名もない調整」の積み重ねだった

    学生の頃に想像していた一人暮らしは、もう少しドラマがあった。好きな家具を置いて、好きな音楽を流して、夜におしゃれなパスタでも作って、たまには急に映画を観に行って、自由って最高、みたいなやつ。

    でも、実際の一人暮らしは、それよりずっと地味で、だけど地味なくせに妙に重たい。

    自由なのは確かだ。晩ごはんを食べる時間も、お風呂に入る順番も、部屋の散らかり具合も、誰にも文句を言われない。その代わり、すべてが自己責任で、しかもそれが毎日続く。

    私は最近、この「毎日続く」という事実にときどきびっくりする。生活って、一回うまくやったら終わりじゃない。洗濯をしたらまた洗濯物は出るし、食べたらまた食材は減るし、今週を乗り切っても来週が来る。

    終わりのない小さな実務みたいだと思うことがある。

    そして、その実務のなかには、外から見えない感情の管理も含まれている。私は今日、スーパーから帰って小松菜を切りながら、なぜか少しだけ泣きそうになった。別に悲しいことがあったわけじゃない。

    ただ、誰にも頼まれていないのに、ちゃんと生きるための作業を淡々とこなしている自分が、少しだけ気の毒に思えた。こういうことを言うと大げさに聞こえるかもしれないけれど、たぶん大人の生活には、そういう名もない切なさがある。

    誰かに褒められるほどではない。SNSに書くには地味すぎる。友達に話すには説明が面倒。でもたしかに、心の中には積もっていく。

    ひとりで機嫌を立て直し、ひとりで予定を組み替え、ひとりで「今日はここまででいい」と線を引く。この作業に、思っていた以上に体力がいる。

    前は、頑張ることってもっと派手なものだと思っていた。資格の勉強をするとか、仕事をバリバリこなすとか、何かに挑戦するとか。

    もちろんそれも頑張りだけれど、最近の私は、卵を切らさないこととか、洗濯物を溜めすぎないこととか、しんどい日にコンビニ飯で済ませても自分を必要以上に責めないこととか、そういう小さなことの方がよほど難しいと感じる。生活は、達成ではなく維持の連続だ。そして維持には、意外と精神力が要る。

    今日の私は、「ちゃんとしなきゃ」じゃなくて「持たせなきゃ」で動いていた

    元気な女性

    夜、ごはんを食べ終わってから、テーブルの上に置いたレシートを眺めていた。千円台の買い物なのに、なぜかやけに現実感があった。

    高いものを買ったわけでもないのに、今月あと何回こういう買い物をするんだろう、電気代の引き落としはいくらだっけ、来週は外で食べる予定があったな、みたいに、勝手に数字が頭の中を歩き始める。

    学生の頃は、お金の不安ってもっと大きな場面で出てくるものだと思っていた。学費とか家賃とか、そういうはっきりした額に対して感じるものだと。でも今は、むしろ日常の細切れの出費が、静かに気持ちを削ることの方が多い。

    ただ、今日気づいたのは、私は「ちゃんとしたい」から先回りしているわけじゃない、ということだった。むしろ逆で、「崩れない程度に持たせたい」からやっている。

    この違いは、自分の中ではかなり大きい。

    ちゃんとしたい、だと、理想が前にある。きちんとした部屋、整った食事、無駄のない家計、疲れを見せない大人。でも持たせたい、だと話が少し変わる。

    今日はこれ以上しんどくならないように、明日の朝の自分が最低限困らないように、今週をなんとか越えられるように。そのために卵を買うし、洗濯機を回すし、予定を一本断念する。華やかではないけれど、ずいぶん現実的で、少しやさしい考え方だと思った。

    たぶん私は今まで、生活を整えることをどこかで「美意識」の話として見ていた。センスのいい暮らしとか、余裕のある人の習慣とか、そういうものに近いと思っていた。でも本当はもっと切実で、生存に近い。

    部屋を片づけるのも、食材を切らさないのも、睡眠時間を削りすぎないのも、全部「この先の自分を壊しすぎないため」の行動なのかもしれない。

    そう思ったら、今日のスーパーでの自分に少しだけ見方が変わった。入口で立ち止まって、卵と牛乳と予算のことを考えていたあの時間は、別に冴えない大人の時間じゃなかった。

    あれはあれで、自分の生活を今日のところはちゃんと着地させようとしていた時間だった。誰にも見えないし、拍手もされないけれど、生活ってたぶん、そういう見えないところで保たれている。

    学生の頃の自分に教えてあげたいのは、「大人になると自由になれるよ」だけじゃない。「大人になると、生活を守るために先回りして考えることが増えるよ」ということだ。

    そしてそれは、つまらないことでも、負けでもなく、案外まっとうなことなんだよ、と。

    もちろん、毎回うまくできるわけじゃない。買い忘れもするし、冷蔵庫の奥で野菜をしなしなにすることもあるし、しんどい日に何もしたくなくてソファでスマホを見続ける日もある。

    私なんて、今日は小松菜を買ったくせに、結局それを茹でるのが面倒で、卵かけごはんと味噌汁で終わらせた。そういう日も普通にある。でも、だからこそ思う。普通の生活って、完璧に回ることじゃない。

    小さくつまずきながら、それでも翌日の自分が詰まない程度に、なんとかつないでいくことなんじゃないかと。

    少し前まで私は、生活の苦労を認めることが、なんとなく大げさで情けない気がしていた。家事もお金のことも予定管理も、みんな普通にやっているのだから、自分だけ疲れた顔をするのは違う気がしていた。

    でも、みんな普通にやっていることって、簡単という意味ではないんだと思う。ただ、言わないだけで。見せないだけで。普通の生活の裏側には、それぞれの見えない調整がある。

    だから今日は、うまく生きた、とは言わない。丁寧に暮らせた、とも言い切れない。ただ、持たせた、とは言える気がする。

    今日という一日を、明日の自分に雑に押しつけない形で、なんとか終わらせた。それだけで十分だとはまだ思えないけれど、それでも無視していいことではない気がしている。

    大人になると気づくけど、生活って、夢を叶える前にまず暮らしを維持するところから始まる。そしてその維持は、想像よりずっと地味で、誰にも見えなくて、なのに妙に尊い。

    学生の頃の自分がもし今の私を見たら、もっとキラキラした大人を期待していたかもしれない。でも、帰り道に卵の値段で少し迷って、明日の服の乾き具合まで考えて、夜のうちに米をセットして眠る今の私は、思っていたよりずっと地味で、たぶん思っていたよりちゃんと生きている。

    あなたが最近、誰にも言わずに先回りしていることは、何ですか。

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