何も予定がない休日が怖くなる朝に、カレンダーの空白を見て立ち止まった私の話

当ページのリンクには広告が含まれています。
    • URLをコピーしました!

    目次

    休日に何も予定がないと不安になる現象

    不安になる女性

     木曜の朝なのに、窓の外の光がやけに休日みたいな顔をしていて、私はそれにだまされかけました。洗濯機の表示ランプが点滅して、いつもの音を立てて回っているだけなのに、頭のどこかが「週末の予行演習」を始める感じ。私はマグカップに白湯を注いで、湯気が消えるより早くスマホのカレンダーを開きました。予定は、空っぽ。今度の土日も、空っぽ。
     空っぽなのに、なぜか胸だけが先にざわざわして、なにか失敗したみたいな気持ちになる。まだ週末は来ていないのに、私はもう週末に置いていかれた顔をしていました。

     今日の小さな出来事は、たぶん、他人に話すほどのことじゃない。駅に向かう途中、ふと入ったコンビニで、店員さんが「温めますか?」と聞いてくれたのに、私は反射で「大丈夫です」と答えてしまって、でもその瞬間「温めてもらった方が、家でちょうどよかったのに」と思ったこと。
     この「あとからじわじわ来る後悔」って、休日の予定がない不安と、どこか似ている。


     そのとき心の中で浮かんだ、誰にも言わなかった本音はこうでした。――「私、今、“温めてくれる人”がいないことに、ちょっと慣れすぎてない?」
     予定がない休日って、自由のはずなのに。自由なのに、私はいつも「冷めたまま抱えて帰る」選択をしてしまう。

     「休日に何も予定がないと不安になる現象」を、私はずっと“性格”だと思っていました。暇が苦手とか、寂しがり屋とか、行動力がないくせに欲張りとか。けれど、ちゃんと調べてみると、これは案外、私ひとりの話じゃないみたいです。たとえばFOMO(Fear of Missing Out)――「自分がいないところで、他の人がもっと良い体験をしているんじゃないか」という不安。SNSはその気持ちを増幅しやすい、と言われています。


     タイムラインに流れてくるのは、誰かのカフェ、誰かの旅行、誰かの“充実した休日”の切り抜きで、そこには「だるくてパジャマのまま動けなかった午前」や「食器を洗う気力がなくて流しに溜めた夜」みたいな部分は、だいたい写っていない。写っていないのに、私はそれを“存在しない”ことにしてしまう。だから、予定が空っぽの自分だけが、やけに浮いて見える。

     それに、もうひとつ。忙しさがステータスになっている文化の話も、よく出てきます。昔は余暇が特権だったのに、いまは「忙しい=価値がある」と見なされやすい、と指摘されることがある。
     これ、思い当たる。私は「暇です」って言うのがちょっと怖い。なぜなら、暇だと言った瞬間、何も生み出していない自分がバレる気がするから。休日の予定がないと不安になるのは、もしかして「時間が余っている」ことより、「余っている時間に見合う自分でいられない」ことが怖いのかもしれない。

     たとえば、土曜の昼すぎ。
     時計の針が13時を過ぎたあたりから、私の部屋は急に“試験会場”みたいな空気になります。外は明るくて、電車の音だけが元気で、なのに私は部屋着のまま、テーブルの上に飲みかけのコーヒーを置いて、なぜかスマホを握っている。
     「今日、私の人生、進んでる?」って、誰も聞いていないのに、勝手に問い詰めてしまう。
     この時間帯が苦手な人、きっといると思う。なんていうか、午後って、ちゃんと何かしていないと“存在が薄くなる”感じがして怖い。わかる…って、言ってほしい。

    予定の空白が、私の価値の空白に見えるとき

     予定がない休日が近づくと、私は“空白”を見つめてしまいます。カレンダーの白い四角。誰も私に何も求めていない、という証拠みたいに見えてしまう。
     でも、冷静に考えたら逆です。誰も求めていないんじゃなくて、ただ「自由にしていい」だけ。
     それなのに、自由って、思ったより負荷が高い。
     会社の日は、時間割が勝手に決まっている。出社、会議、締切、連絡、帰宅。やることがあるから、迷わなくて済む。迷わなくていい日は、疲れるけど、ある意味ラクです。
     休日は、迷いがむき出しになる。何をしてもしなくても、誰にも怒られない。その代わり、私が私に点数をつけ始める。「今日なにした?」「ちゃんと休んだ?」「何か得た?」って。

     私は休日になると、カレンダーだけじゃなくて、予約アプリも開きます。美容院でも、カフェでも、映画でもなく、ただ“予約できるもの”を探してしまう。行きたいというより、埋めたい。
     そして一番こわいのは、予定を入れること自体じゃなくて、「予定がある私は、少しだけ許される」という感覚です。


     誰に許されるのかっていうと、たぶん、私に。
     予定があると、私は安心してダラダラできる。「今日は〇〇したから、夜は何もしなくていい」っていう免罪符になる。逆に、何もしていない日は、ダラダラすら“罪”みたいに感じてしまう。休むって本当は必要なのに、休むための理由を作らないと落ち着かないって、なんだか矛盾してる。

     今日の私の変な行動は、ついに「架空の予定」を入れそうになったことでした。
     来週の土曜の午前に、ただのメモとして「買い物」と入力して、色まで付けようとして、手が止まりました。


     その瞬間、胸の奥がひゅっと冷えて、私は笑ってしまった。
     ――“予定がある私”を、スマホの画面上だけでも作りたかったんだ。
     これ、たぶん誰にも言えない。言えないけど、読んでくれている誰かなら「わかる…」って言ってくれる気がする。予定がないと不安なのって、暇が怖いんじゃなくて、空白が“評価待ち”に見えるからなのかもしれない。

    「不安」は、未来の情報不足に弱いらしい

     心理学には「不確実性への不耐性(intolerance of uncertainty)」という考え方があって、先が読めない状況や情報が足りない状態を、強いストレスとして感じやすい傾向があるそうです。
     これを知ったとき、私は妙に納得しました。休日に予定がないときって、未来の情報がない。
     何時に起きるかも、どこへ行くかも、誰に会うかも、何を食べるかも、決まっていない。
     つまり、「情報不足」なんですよね。


     情報不足って、脳にとっては“危険かもしれない”と同じ扱いになりやすい。だから、私の胸はざわざわする。
     不安は、私を守ろうとしている。守り方がちょっと過保護なだけで。

     ここで私の本音がもうひとつ出てきます。
     ――予定がない休日が怖いのは、たぶん「自分が何をしたいのか」が見えなくなるから。
     何をしたいのかが見えないと、私は「誰かのやりたい」に寄りかかりたくなる。友だちの誘い、イベント情報、SNSの流行。そこに乗れば、決めなくて済むから。


     実際、私はLINEのグループを開いては閉じます。誰かが「土日なにしてる?」って言い出したら、乗れるのに。乗れたら、安心なのに。


     でも、誰も言い出さない日もある。私も言い出さない。
     その沈黙の時間に、私は「みんなはもう予定が埋まってるのかも」と勝手に想像して、勝手に小さく焦る。FOMOって、派手なイベントの話だけじゃなくて、こういう“想像の中の欠席”でも起きるんだと思う。

     予定がない休日は、決める力が試される。
     “自分の欲”を、ちゃんと扱う日になる。
     それが怖い。怖いから、私は空白を埋めたくなる。
     そしてたぶん、空白を埋め続けると、「自分の欲」がますます聞こえなくなる。静かな部屋で聞こえるはずの小さな声を、予定の音でかき消してしまうから。

    今日は「温めない」をやめてみた

    喜ぶ女性

     夕方、家に帰って、コンビニで買ったお惣菜をレンジに入れました。今日はちゃんと温めた。たったそれだけのことなのに、私は少しだけ救われた気がしました。
     「温めますか?」に反射で断らない。
     休日の予定も、反射で“埋める”方向に走らない。
     このふたつは、私の中で同じ棚に並んでいる気がします。

     そこで、今日だけの小さな気づきがありました。
     予定がない休日が不安になるとき、私は「何かをする」ことで安心したいのではなく、「私はちゃんと手当てされる存在だ」と確認したいのかもしれない。
     手当てって、誰かにしてもらうことだけじゃなくて、自分でできる。


     布団を干す。湯船をためる。温かいものを温かいまま食べる。部屋の照明を少し落として、窓の外の暗さと同じ速度で呼吸する。


     それから、予定がない日ほど、あえて“短い予定”だけを作るのもいいのかもしれない。二時間先の散歩とか、17時にスーパーに行くとか、寝る前にシーツを替えるとか。人生が立派に進む予定じゃなくて、生活がちゃんと回る予定。
     そういう“地味な手当て”は、SNSに載せるほど派手じゃないし、「充実した休日」として語るには弱い。
     でも、私の不安には、案外これが効く。
     忙しさがステータスだとしたら、私はきっと、ステータスのために予定を埋めている。だけど、私が本当に欲しいのはステータスじゃなくて、安心の体温だった。

     もちろん、これで全部解決、なんて言えない。来週の土曜が近づけば、私はまたカレンダーを開いて、空白を見て、胸がざわつくと思う。
     ただ、今日の私は「架空の予定」を入れずに済んだ。代わりに、温かいものを温かいまま食べた。
     それだけで、“空白”が少しだけ怖くなくなった気がする。空白は価値の欠如じゃなくて、手当ての余地なのかもしれない。

     予定がない休日って、もしかしたら「人生が止まっている」サインじゃなくて、「自分の声が聞こえる」チャンスなんでしょうか。
     でも、聞こえたら聞こえたで、たぶん面倒くさい。欲も弱さも全部出てくるから。
     あなたは、予定がない休日が近づくとき、何を埋めたくなりますか。カレンダーの空白でしょうか、それとも――自分の胸の中の、静けさでしょうか。

    よかったらシェアしてね!
    • URLをコピーしました!
    • URLをコピーしました!
    目次